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  • 執筆者の写真アンコンシャスバイアス研究所

東北フィールドトリップ① ~知ることから生まれる思い~


アンコンシャスバイアスとは、「無意識の偏ったモノの見方」「無意識の思い込み」など、日本語では様々に表現されている言葉である。11月某日、アンコンシャスバイアスを知るツアーとして、東日本大震災後の復興地東北をおとずれるツアーが開催された。



正常性バイアス:きっとここは大丈夫

集団同調性バイアス:みんながここにいるから私もここにいる



色々なバイアスが、津波による被害を拡大した原因のひとつかもしれないといわれてもいる。その確証は誰にも、どこにもないし、誰が悪いわけでもないと思う。



一般社団法人アンコンシャスバイアス研究所の代表理事の守屋はいう。

「復興地東北で鼓舞奮闘する語り部の皆さんとの出会いと、語り合いの時間が、生き方、あり方、働き方を見つめなおすきっかけになればという思いでこのツアーを2012年より継続して実施しています。そして、自分のなかにある、無意識の思い込み(アンコンシャスバイアス)に気づくきっかけになれば幸いです。ちなみに僕は、復興地東北に通うなかで、生き方やあり方。人生がかわったひとりです」



と。そのひと言とともに、このツアーがスタートした。



11月某日。私は東北にいた。

復興地東北沿岸部をめぐり、出会いに学ぶツアーに参加していたからだ。



2011年3月11日のことを思い返してみた。私は、当時、働いていた会社にいた。10階のオフィスは、横に大きくゆれ、後ろにいる課長が淹れたてのコーヒーをこぼし「あちっ!あっっちぃ~~~!」と慌てていたことをおぼえている。ほどなくして電車が止まり、見知らぬ多くの人と共に行列になり歩いた。



4時間かけて家に着いたら、母がいた。「おかえり。大丈夫だった?」と声をかけてくれた。そして、次の日からはいつもの日常に戻っていた。

それが、私の東日本大震災の1日だった。



親族、友人がいる場合は別として…。

被災地から遠ければ、震災はマクロな視点となる。「地震があった」と。



同じ日に、震災地では多くの命が亡くなった。被災地に近づくほど、震災はミクロな視点となる。

「〇〇さんの家が流された」

「〇〇さんは山の上で生き残った」

「〇〇さんの遺体が見つかった」

「〇〇さんは今だ行方不明だ」



それは、「地震があった」という一言では表せない。”一人ひとりの震災”へと変わっていく。現地に行かなければ知る事のないこと。一人ひとりの、震災にまつわる物語がそこにはあった…。その物語を通じて、私は「命」と向き合う事になる。



 

Day1 ー 陸前高田・釜石市を訪れて ー

 

朝一の新幹線に乗り、岩手県の「一ノ関駅」へと降りたった。

参加者全員が揃い、バスへと乗り込むなか、私は、少し複雑な気持ちを抱いていた。



ちょうど今年、私は祖母を亡くした。

老衰だった。

祖父もそうだった。

身内に大病を患った人はいない。



つまり…。

私は、命と直面する機会がほぼ無かった。

あっても、大往生と言える幸せな死だった。



命が維持されるのが当たり前の日々の中で過ごしている。だから、命の危機と直面した被災地の人達とどう向き合えばいいか分からなくて、少しモヤモヤとした気分だった。そんな思いをひそかにかかえるなか、バスは、震災被害が1番大きかったとされる陸前高田市へとむかった。


 

15Mの高さから命の意味を考える

米沢商会代表取締役 米沢祐一さん

 

「 色々な偶然が重なって自分は助かった。 」



そう米沢さんは話し始めた。

米沢さんは、梱包資材などを販売する会社を経営されている。



震災の時、米沢さんは会社の近くにある在庫倉庫に居た。地響きと共に目の前が大きく揺れ、自分の数倍ある高さの倉庫ラックがなぎ倒しになるのをただ呆然と見つめていたと言う。たまたま倉庫の出入口にいた米沢さんは、ラックに押しつぶされずにすんだ。



会社に戻ると、商品が散乱していたものの、怪我人は居なかった。そして、明日からの生活のために、片付けを行った。一緒に片付けていたご両親と弟さんは、一足先に避難場所である市民会館へと向かった。



米沢さんは、倉庫へと向かい、倉庫の片付けを行なっていた。その時に初めて耳に聞こえてきたラジオの音に一抹の不安を覚える。



「防災無線」だった。



気づいた途端に防災無線は途切れ、米沢さんは店へと戻る事にした。店に戻ると同時に、津波が襲った。得体も知れぬ黒い物体が押し寄せる。ただひたすらに上へ上へと登った。


2階もダメ。

3階もダメ。

屋上もダメ。


残されたのは、

わずか80センチ四方の煙突の先だった。

その高さは地上から15メートルにもなる。

足元ギリギリまで水はせまり、いつ自分も流されるかわからない状態だった。




津波の勢いが治まり、命が助かりそうだと安堵した時に、初めて絶望に気づく。避難場所の市民会館が水没している。



悲しみを抱く暇もなく、避難が来るまで寒さを耐え忍ぶ準備をしなければならなかった。

3月という真冬の中、凍死しないように自分を守るためだ。たまたま流れ着いた発泡スチロールと、たまたま持っていたカッターが役に立った。



自分が生きていると理解したのは、「米沢さん!もう大丈夫ですよ!生き残りましたよ!!」と言われ、救助員の人に肩を強く掴まれた時だったという。



ご両親の遺体は、市民会館より数キロ離れた所で見つかり、弟さんは未だに行方不明のまま…。



震災体験を語ってくださった米沢さんは、最後にこの言葉で締めくくられた。



ここに来てくださり、有難うございます

話を聞いてくださり、有難うございます

話すことで、両親や弟のことを思い出せる

思い出させてくれて、有難うございます



そして、米沢さんは、後世へ教訓として伝えるために、震災遺構として建物を残す決断をされたという。


 

当時の中学生が語り継ぐ3.11

株式会社かまいしDMC 菊池のどかさん

 

「 防災は“命の教育”です。 」



震災の時に中学生だった菊地のどかさん。

その口調は意志がこめられた強いものだった。



海沿いの町で、大きさが違えど津波が来る事は珍しいことではない。だから、昔の人は津波の怖さを知っていた。



「地震がきたら津波がくる。

 津波がきたら学校からすぐに走り出さないと間に合わないぞ」



のどかさんの祖父は、そう伝えていた。



震災時、のどかさんは学校にいた。年下の子とペアになり、小さい手を握りながら避難場所へと走った。見たこともない津波に恐怖を抱きながら、ただひたすらに上へと走った。



自分の命が確保できた時に、初めて両親の事が頭をよぎる。それまでは、自分の命、ペアになった子の命を守る事で精一杯だったからだ。そして、震災から数日たち、やっと両親に再会できた。そして、両親がどれだけの愛情を自分に注いでくれているのかを知った。



「誰しもが、誰かに思われている。私が誰かに思われている分、愛情をもらっている分、

その思いを生きている内に誰かに返したい。生きているのに何もしないなんて・・・」



そう言葉をつまらせながら、

話を続けてくれた。


誰かが生きている喜びも、

誰かが亡くなった悲しみも、

根本は愛情だ。


避難所で、のどかさんは

多くの愛情を目にしてきた。




震災で感じた愛情を次につなぐべく、今は命をつなぐ未来館にて“命の教育”である防災教育の伝承に取り組んでいる。



ツアー参加者の1人が、「私たちは津波を経験していないので、本当の意味で理解する事は出来ないけど・・・」という言葉で話はじめた。誰しもが心で思っていた事だ。のどかさんは、その言葉にこう答えてくれた。



「津波を経験しているか、していないかは、あまり問題ではない。何があったのか、なぜ多くの命が亡くなったのか、それを知って欲しい。後世、同じことがあった時の教訓のために。いつ、誰が、どこで、何が起きるかは分からないのだから。」



震災を無かったことには出来ない。

見なかったことにも出来ない。



平穏は幸せだ。

だが、幸せを守る事と、命を守る事は違う。

命を守るために、知ることを止めないでほしい。



そう、のどかさんの気持ちが伝わってくるようだった。「大切な人に大切だと伝えてくださいね」と、のどかさんは最後に笑顔で言った。


 

津波に飲み込まれ九死に一生を得たおかみが語る希望、生かされた者の役割

浜べの料理宿 民宿宝来館 女将岩崎昭子さん・相撲甚句

 

「 震災の時は、てんでんばらばらで良いから、自分の命を自分で守る。

  命がてんでんばらばらに逃げる。命てんでんこ。それで良い 」



その話と共に、津波の映像を見せてくれた。



叫び声がこだましている映像だった。



人が走り山に駆け上っていた。海からうねる黒い波が流れ混んでいる。大きな車が、重さを無くしたかのように流れていた。震災の時に、岩崎さんは「今日は山に逃げなきゃいけない日だ!」と思ったと言う。宝来館は海沿いにある民宿。過去の教えから、大きな津波がくると、どこかで感じていたのだ。



そして、津波には約束事がある事を承知していた。

“決して戻ってはいけない”

という事を。



岩崎さんは震災の時、

その約束事を破った。


山に登った後、逃げ遅れた人を

山に呼ぶために民宿に戻ったのだ。


山へと再度駆け上る時に、

体半分津波に浸かりながらも、

九死に一生を得た。


「戻ったのは正しいと言えない。

でも、何もしないという選択肢はなかった。」


何が良い選択だったかは分からない。

ただ、女将と一緒に走って

逃げてきた人は、全員命をつないだ。




宝来館は、津波がひいた後、地域の避難所としての役割を果たす。宿は命を守る場所だと強く認識した岩崎さんは、その思いと共に民宿宝来館を再オープンした。



その宝来館では、相撲甚句を聞くことが出来る。相撲甚句は、大相撲の巡業などで披露される囃子歌だ。“釜石あの日あの時甚句伝え隊”が、甚句に思いをのせて震災を伝える。





震災で親族を亡くした人は多いが、伝え隊のメンバーもまたその1人だった。相撲一家だったメンバーは、その思いを相撲甚句にのせ、震災の教えと共に歌っている。



なぜ、宝来館を再オープンしたのか。

なぜ、相撲甚句で震災を伝えようとするのか。



それは風化させないためだ。

震災を無かった事にはしないためだ。

亡くなった命の理由を伝えるためだ。

歌をつなぎ、

それを宝来館という場で思いと人をつないでいる。



震災は、多くの悲しみを生んだ。

でも、多くの繋がりも生んだ。



何が正しいか間違いかなんて、今も分からない。

今できるのは、生きて、伝え、つなぐ事。



そう使命を抱いた女将の姿は、とても強く、たくましかった。目の前の現実が大変な事は変わらない。再オープンのために必要となった費用は、膨大なものだったと言う。それでも、そこには女将の笑顔があった。



 

一日の終わりに思うこと

 

その日、宝来館の露天風呂につかりながら考えていた。



1つめは、1日の始まりにあった「自分の複雑の気持ちの正体」についてだ。どこか現地にいても、ブラウン管を通して見ているような感覚。悲しさ・苦しさが伝わってくる。涙もでる。想像はできる。でも自分ごとのように捉えられない。だって、結局は経験していないから。



そんな自分に罪悪感を覚えた。



行く前から、そうなる事をどこか気づいていたのだと思う。“罪悪感”こそが、複雑な気持ちの正体だった。でも、現地の人は、悲しさ・苦しさの理解を望んでいるわけではなかった。



ただ、知ってほしい。

あなたの命を守るために。

あなたの家族を守るために。



理解じゃない。知ることが大事。それを、被災地に生きる人たちから教えてもらった。何かを知ると、自分にも何か出来るんじゃないかと思う。何か手助けできることがあるんじゃないかと考える。でも、方法が分からなかったり、躊躇して足踏みをし結果何もできない事が多い。自分の無力さに悲しくなる。そうして考えるのをやめた時に、思いは風化していく。



罪悪感がある。

自分の無力さを感じる。

色んな思いが巡る。



それでも、私は知ることをやめてはいけないと思った。知ることで思いがわきあがり、思いが行動を生むからだ。



2つめに考えていたことは「使命」についてだ。



今日話を聞いた人たちは、誰もが同じ単語を言った。「生きているから」と。今につながった命の中で、何かを果たそうと使命を見出していた。



私は、東京の生活の中で、自分の使命が見つからないことに悩んでいた。人が変わる、場所が変わる、ルールが変わる。何かあるたびに、私は仕事へ向かう姿勢も、気分もブレた。それが、仕事の結果にも影響していた。



だから、生きるための軸が欲しいと、常々感じていたのだ。姿勢を保つには、背骨という軸が必要なのと一緒で。生きるという骨組みの中で、軸である使命が欲しかった。そのために、何をすれば良いか未だに分かっていない。でも、私は今生きているから。



知ることをやめず、思うことを恐れず、行動をする勇気を持てば、いつか何かが見つかりそうな気持ちになった。



3つめに考えたことは、夫のことだった。



のどかさんの最後の言葉は、”今を大切にする”ということを教えてくれた。のどかさんの”命の教育”は、今を大切にする方法として「大切な人に大切だと伝える」という宿題を与えてくれた。



だから、「大切に思ってるよ」と夫にも伝えようと思った。普段言わないものだから、恥ずかしい気持ち一杯で。LINEで伝えるのが、精一杯だった。



そしたら・・・既読スルーだった(苦笑)



普段送らないものだから、返信にとまどったのだろうか。一瞬の怒りに「もう二度と伝えるもんか…」という気持ちがよぎる。でも、それでも、こりずにまた伝えてみようと思う。それが、私がこの1日で学んだことだから。




【ライター】大谷まい(アンコンシャスバイアス研究所 事務局)

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