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  • 執筆者の写真アンコンシャスバイアス研究所

東北フィールドトリップ② ~命を持つ覚悟がありますか?~



昨夜、女将の話を聞いて、決めていたことがあった。津波が襲った海岸がどうなっているか、自分の目で確かめるという事だ。朝食後、波打ち際を散歩した。昨晩見た津波の映像とは違い、波は穏やかだった。それだけで幸せな事なんだと思い、自然と今に感謝した。


海岸には、石碑が立っていて、

ある文言が書いてある。


「ともかく上へ上へ逃げよ。

 てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。

 この地まで、津波が来たこと

 そして、裏山へ逃げ多くの人が

 助かったことを後世に伝えてほしい」


人は、過去にも未来にも生きれない。

だから、過去から学び、未来の創造へとつなげるしかない。


この石碑は、

震災地の人が未来を創造した証だ。




 

Day2 ー大槌町を訪れて ー

 

2日目は、北へとのぼり、大槌町へと向かう。



大槌町は、津波で甚大な被害が出た地区のひとつだ。中心市街地が壊滅し、人口の1割近い人が亡くなった。



その話を聞いて、胃が少しチクリと痛んだ。昨日揺れ動いた感情が、まだ落ち着いていなかった。感情の消化不良だ。



「今日もまた、私の知らなかった命の重さを知る1日となるんだろうな…」そう思い、バスに乗った。

 

大切なものを大切に・・・震災で気づいた「恩送り」とは

NPO法人吉里吉里国 芳賀正彦さん

 

「震災の時、暖かさをくれたのは、次に進む力をくれたのは、

 避難所で常に焚かれていた炎だった。」



芳賀さんは、津波が来ると知って避難所へと急ぎ、命は助かった。助かったが・・・助かったからこその苦しさが、そこにはあった。



吉里吉里は、復興に向けていち早く行動をおこした。自衛隊がいつ来てくれるかもわからない。自分たちでがれきを撤去し、道を作った。



がれきの下には亡くなった人がいた。

遺体を傷つけないように、手作業で行った。

何人もの遺体を目にした。

口には出せない姿をしていた。



心に色んな葛藤を抱きながらも、手を止めるわけにはいかなかった。亡くなった人のためにも、生きている自分達のためにも。


「なぜ自分が生きていて、多くの人が死んだ?なぜこうなった?俺は生きているのか?いや、生かされているのか?」



自問自答をしながら、何日も眠れぬ夜を過ごした。眠れぬ夜は、いつも避難所の焚火の前にいた。いつのまにか、炎に語りかけるようになっていた。そうして、ひとつ肚に決めた。



「震災を背負って生きていく。残してもらった人生、甘えまい」



炎が寄り添い、教えてくれた事だ。そう決めてから、やっと夜を眠って過ごせるようになった。吉里吉里は、海という場所を失った。でも、肚に決めた覚悟は、違う場所を目に映した。


海の逆側を見た時、そこには山があった。


「あぁ・・・

 俺たちには、山があるじゃないか」


そうして、芳賀さんは

山で生きることを決めた。


山で生活をしていくと

気づいたことがある。


今ある山は、昔の漁師たちが

植林をして豊かにしたという事だ。

その山が豊かな海の環境を維持していた。


山が育つ伐採をし、山を守り、

豊かな海が再生することを願った。



先代から貰った恩に気づき、その恩を次世代へとつなぐべく、今は木樵(きこり)として活動している。


 

虎龍山 吉祥寺

住職 高橋英悟さん

 

「震災は目がさめる思いだった。

 あの経験がなければ、こんなに真剣に生と向き合っていなかったかもしれない。」



凛とした正座姿で迎えてくれたのは、吉祥寺の高橋住職。仏教の教えにある、「四苦八苦」を私たちに説いてくれた。



生老病死…生きる、老いる、病気になる、死ぬ苦しみ

愛別離苦…愛する人と別れる苦しみ

怨憎会苦…怨み憎む苦しみ

求不得苦…欲しいモノが手に入らない苦しみ

五蘊盛苦…体や心が思い通りにならない苦しみ



この中でも、昨今は求不得苦の苦しみが強い。「モノに満たされる=幸せ」という価値観が、根付いているからだ。それは、仕方がないことかもしれない。技術の進化で、便利なモノが増え、必需品が増えた。昔と今で、家の中にあるモノの数は、一体どれほど増えただろうか。



日常生活、モノに囲まれる事が普通になった。それが足りなければ、不幸せだと感じるようになった。



でも、震災でそれらが無くなった。

家もお金も無くなった。

人によっては、愛する人が亡くなった。



その悲しさを何も埋める事が出来なかった。



無くしたものを、元通りにすることは出来ないからだ。何も無くなったときに、モノやお金は人の心を満たさなかった。そこに残ったのは、人の気持ちだけだった。震災は、お互いを思う愛情こそが、宝物だと気づいた瞬間だった。



高橋住職は、本堂を避難所として開放し、多くの遺体に読経を重ねた。震災時から現在まで、色んな命の形を目にしてきた一人だ。



震災で亡くなった方、愛する人を亡くし悲しんでいる方、苦しみに耐えられず自ら命を絶った方、生き残ったのに病気で生きられなかった方。そこには、四苦八苦の苦しみがあった。

だから、住職は言う。



「命は奪っても、奪われても、自ら断ってもダメ。いつ別れが来ても後悔しない生き方をしてほしい」



1か月後に、愛する人がいないかもしれない。

1日後に、愛する人がいないかもしれない。

1時間後に、愛する人がいないかもしれない。

だから、どうか今を大切に。



高橋住職は、今も地域を支え続けている。


 

フィールドトリップを振り返って

 

1日目におとずれた「高田松原津波復興記念公園」には、東日本大震災津波伝承館がある。津波とはどの様なものか、どんな被害があったか、どんな思いがあったかを伝える所だ。そこに書いてあった、2つの言葉が印象的だった。



「誰も責任を取れない作業を葛藤しながらやった」

「これは誰かがやんなきゃなんねぇことなんだ」



被災者の人たちは誰しもが、正解・不正解なんて分からない、そんな状況で判断をしなければならなかったのだと思う。



「これで良いのか?」



そんな思いを常に抱えていたのかもしれない。普通に過ごしている日常の常識というものに捕らわれずに、”命をつなぐ”という基準で自分たちの行為を決めなければならなかった。悩んでいる暇なく、生きるために行動しなければならなかった。



それは、まさしく‘‘命のリーダーシップ”と言える。命をどう使うか。どう守るか。それは自分次第だと、教えてもらった言葉だった。




2日間、道中のバスの中では、震災に関する映像を見ていた。その中で、こんな言葉がよく出てきた。



「私たちは大丈夫」

「津波がここまで来るわけないから大丈夫」

「みんながここにいるから大丈夫」



これらは全てアンコンシャスバイアスといえる。心の傾向は、とても根強い。誰しもが持っており、無くなるものではない。



では、私たちに何が出来るのかというと、傾向を”知る”事だ。知る事で、ひとつの意識が芽生える。



「私は、どう思っているんだろう。どうしたいんだろう?!」



それは、アンコンシャスバイアスで伝えている事であり、命の教育でも大切だと伝えている事でもある。”誰か”では無い、”私”を主体に考える。命の主体性だ。



主体性が出した答えに、正解・不正解は無い。行動の結果がどうなるかも分からない。

ただ、自分で知る・考える事をやめてはならない。そう被災地の人から教わった気がしている。


 

●正常性バイアス

確証が無いのに自分に良いように思い込んでしまう

例:「私は大丈夫」「私は問題ない」


●集団同調性バイアス

周りと同じように行動する

例:「みんなが〇〇と言っているから安心だ」

 

吉里吉里国の芳賀さんが言った。

「震災を通して、私たちは生かされていることに気づいた」



米沢商会の米沢さんが言った。

「偶然が重なり生き残った。偶然が1つでも足りなければ死んでいた」



私たちは、勝手に命を与えられ、生きているように感じているのかもしれない。でも、命がいつ生まれ、亡くなっていくのか、私達には左右できない。生きる時代も、生まれ落ちる環境も選ぶ事ができない。生まれてからも、命を口にすることでしか、自分の命を維持できない。命が存在しない所に、命は生まれない。私たちは、命の巡りの中で生かされている存在なんだと気づく。



ただ、私たちが命を与えられている間は、ある程度命の主導権を渡される。命はそこに自分があるという事実、体は命を入れる箱、心は命を動かすエネルギー。自分が世界に存在する限り、命の手綱は常に自分の手の中にある。だから、命のリーダーシップをとることが、命を持つ者の責任のように感じた。



震災地からの帰宅道。語り部の方の話を振り返っていると、1つの言葉が頭に浮かんできた。



「命を持つ覚悟があるか?」



なんとなく自分が情けなくなって、涙が出た。命と直面した人は強い。命を持つ覚悟があるからだ。私も強くありたい。命を燃やし生きたいと思った。



それが、私の東北フィールドトリップで心に残ったものだった。


 

最後に、東北を訪れる機会を作って頂いたアンコンシャスバイアス研究所に、また一緒に被災地をめぐ感情を共有しあった参加者の皆様に、感謝の気持ちを送りたい。





【ライター】大谷まい(アンコンシャスバイアス研究所 事務局)

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